俯瞰古代史

以下の古代史の論考は学術的な論考ではなく、あくまで素人の読書感想文の水準である事をご容赦頂きたい。古代史の書籍は人気があり、相当数出版されているが、学術的な論考に依る、研究者による書籍の記述と、それ以外の書籍の記述を混同するとおかしなことになるので、基本的には以下は研究者の書籍の記述を基本とした。研究者でない方の語りは自由で、非常に興味深く、想像を昂進して止まないが。

 

文中、教授職にあった研究者については、現職と関係なく教授という称号を使用した。欧米の文化では教授は終身の称号である。

日本人はどこから来たのか

この50年の学術の進歩は画期的で、多くの考古学的発掘とその分析編集の結果、多くの歴史書が書き換えを余儀なくされている。また生物学的には、日本人の遺伝子情報の分析がされている。

鎌田健一教授の「日本人になった祖先たち」によれば、日本人、朝鮮人、北部中国は同じグループである。縄文系は南方系ともある。たどれば一人のアフリカ人女性に行き着くとある男性も同様にアフリカ人に行き着くとある。。女性の系譜はミトコンドリアに引き継がれ、男性の系譜はY染色体に引き継がれるとある。10万年以上前に、アフリカを出た人類の祖先はヨーロッパとアジア目指して移動を始めたとある。ここまではほぼ定説に近い。アジアへの移動経路にはヒマラヤの北と南のルートがるようだが、日本人の祖先はヒマラヤの南ルートのようだ。

DNAから見た日本の近縁関係を「日本人になった祖先たち」にある図を見易く描き直して下に示す。DNAが分析されているサンプルが限られているので、その偏りがあると思うがなんとも興味深い。

DNAから見た日本周辺の近縁関係
DNAから見た日本周辺の近縁関係

日本語の源流が南インドのタミル語やポリネシア語ににあるという説を大野晋教授が「日本語の源流を求めて」で提起されている。それは60歳から25年間の研究の結論である。この学究の精進には頭が下がる。我々の祖先の弥生人は、南インドですでに原始的な稲作技術を身に着け、さらに、鉄器の文化、機織りの技術もその段階持っていたとある。この南方からのルートは複数の言語学者も支持している。安本美典教授は、日本祖語は紀元前後の北九州の弥生文化としながらも、紀元前23世紀にビルマ系江南言語が入ってきたもある。河出文庫の「日本語の起源を探る」は複数の研究者の学説を、本人が要約しているので参考になる。

弥生人の祖先はインド東部から、東南アジアへ移動し、一部はインドネシア方面からポリネシアへと移動して、もう一方はビルマからベトナム、海南島そして長江下流に入り、稲作技術を進化させつつ、長江文明を築きいたのではないだろうか。ビルマから雲南へ長江中流へのルートもある。それが、鳥越憲三郎教授の「古代中国と倭族」の「倭族」であろうか。この倭族はそのあと黄河に起きた漢民族の圧迫を受け、呉の国を経て北九州、また一部は朝鮮半島南部に渡来したのではないか。一部はインドシナの山岳地帯に移動して王国を立てていったとある。鳥越憲三郎教授は東南アジアの習俗の調査を踏まえ、倭族の民俗学的論考で自説を補強している。

旧石器時代は長く、弥生人の前に渡来した縄文人の出自は難しいのでここでは論考しない。縄文人に遅れて、稲作文化を持って移住してきたのがいわゆる弥生人である。「倭族」の一部族かもしれない。

中国の歴史は黄河文明を中心に展開されてきたが、長江にはそれに匹敵した古代文明が存在した。1986年に発掘された、瞳の突き出た仮面で有名な四川省の三星堆遺跡である。黄河文明と並び立つ古代文明である。これに先立つこと1973年に長江河口の河姆渡遺跡から約7000年前の大量の稲籾と高床式の住居が発見され世界を驚かせた。稲作に加え漁労や狩猟も行っていた。さらに長江中流域でもさらに古い稲作遺構が続々と発掘され、長江中流、下流が稲作発祥の地で有ることはほぼ確認された。長江中流の国々も北からの、黄河文明の勢力の圧力でベトナム、タイ、ミャンマー方面の移動し,下流の北に広がった稲作国家も呉、越、楚の戦乱で山東半島を経て、朝鮮半島中部、南部に逃れてきたとある。この時直接半島南部に定着したグループも有っただろう。朝鮮半島内陸部には先住の北方系韓族、即ち濊族、貊族いたが、この人々は辰韓を樹立して 定住した。さらに対馬、壱岐を経て、北九州に渡来したグループも有ったろう。

弥生人の渡来、即ち農耕社会の成立は、紀元前1000年から数百年の間のようだ。石川日出志教授は「農耕社会の成立」で、弥生時代お初めは紀元前1000年間の前半としている。また、北海道には北方系の民族の流入もあり独自の縄文文化を築いていたともある。アイヌ語はその言語と言語学者はいう。言語学では日本語とアイヌ語は別の系統であると金田一京助教授は言明している。

縄文人で重要なことは、縄文人は狩猟だけでなく、焼き畑農業でサトイモや栗の栽培という農耕文化を持っていたとある。縄文人も山を下り、弥生人の稲作を取り入れていったともある。さらに弥生人は縄文人を征服する形でなく共生する形で混血を含め広がっていったとある。しかし、定住の稲作は急速な人口増加を可能にして、結果として弥生人が縄文人を東に、九州では南に追いやる事になったようだ。先の遺伝子の世界でも、西から東へグジュエーションがあるとある。ただ、弥生時代には、朝鮮半島から、中国文明をもった北方系の民族の、相当多数の移住があり遺伝子的には北方系が有力なったのではないか。

倭族即ち、弥生人の日本列島に入り方は、朝鮮半島、対馬、壱岐のルートが有力だが、山東半島から朝鮮半島に南部を経て、北九州へ、これはのちの中国文明の入り方では有力なルートであるが、さらに長江河口域もしくは山東半島から直接到達したグループがかなりあったと思われる。そして色々な地点に漂着したのだろう。下記の地図を見れば、長江河口即ち、上海から五島列島、北九州にまっすぐ渡るのが一番自然なもしれない。いくつかのルートで時間を違えて多数のグループが渡来したのだろう。当たり前だが、当時は国家も、国境もない。ただ航海術はかなり高度に発展していたようだ。羅針盤の発明は11世紀だが、あの太平洋の島島に広がって行った、高度の航海術を持っていたのだ。

結論的に言えば、倭人、即ち弥生人という現代の日本人の祖先は、遠くインドから移動し、長江河口から稲作文明を持って我が国に渡来したのだろう。その地は北九州の唐津市の菜畑遺跡とされているが、北九州のいくつかの地域で同時に進行していたはずだ。そこから西日本を中心に広がっていったのだろう。弥生時代だけでも1000年から数百年あり、この日本列島の中で、倭国というようなものが形成されたのは紀元前1世紀くらいの時間であろうか。

東アジアの位置関係(Googleearthで作成)
東アジアの位置関係(Googleearthで作成)

倭国の成立

北九州の弥生人は縄文人と共生しながらも、縄文人を南に、東に駆逐しながら広がって行ったと考えられるが、一つの流れは瀬戸内海から吉備そして河内、大和へ広がり、一方は対馬海流に沿って出雲、能登、越へと広がっていったのではないだろうか。北九州の宗像神社は、ヤマトと出雲にもある。日本海のグループは出雲が中心であり、ヤマトとは別の連合王国を形成していたが、やがてヤマトの勢力に従属する事になったようだ。 ただ、この辺が古事記、日本書紀、出雲神話の世界の議論を複雑にしている。魏志倭人伝の投馬国を出雲とするか、吉備とするかの議論も、卑弥呼がどこに居たかと同様に、熱い。特に出雲神話が想像を掻き立て多くの議論を生んできた。ともあれ、日本海側では、対馬海流を利用して山陰、丹後、能登、越とクニが広がり、青森にも稲作文化が伝播しとある。また、倭人は小さな人間という意味もあり中国から見ると僻地の蛮族のように見られていたとある。ただ、朝鮮半島の韓族とは別のものとして認識されていたとある。クニというのは大集落か都市国家のようなもので有った様だ。

紀元前1世紀に編纂された漢書地理志に「楽浪の海中に倭人あり、別れて百余国と為る。歳時を以て来たり、献見すと云う」とある。倭国が歴史に登場した。

大陸から灌漑稲作技術が導入され、九州から東北地方まで広がり、社会が変化し、弥生後期には北九州は大陸の政治と関係をもち、各地にはクニが成立し百余国にもなり。邪馬台国の時代になった。古代史で人々の好奇心を引いてやまない「魏志倭人伝」の時代に入る。すでに弥生後期は、鉄に関して朝鮮半島南東部と交流し、政治は楽浪郡を通じて中国の中原と交流する。1世紀には西日本全体に中国の文化、物資と情報は広まっていたとある。古代の歴史を変えた鉄器は、すでに紀元前3世紀、戦国時代の燕の時代に朝鮮半島に中国の鉄器が流入しているとある。当時まだ倭国には鉄器の技術がなくこれを求めて倭国のクニは半島東南部、対馬の対岸にあった、伽耶の国とかなり濃密な関係を作り上げていたようだ。相当数の倭人が駐在し、屯田兵のような組織があり、半島での拠点となっていた。倭の国特有の前方後円墳の遺跡もある。鉄器の流通は当初は北九州が中心であったがあるときから、ヤマトが中心になりヤマトの隆盛が感じられる。半島を経由した中国との交流は、初めは北九州の有力なクニ、伊都国、や奴国が朝鮮半島西北部にあった、中国の植民地、楽浪郡を通じて、中国中原の政権に国王として認知してもらう外交が続いてきた。志賀島で発見された有名な「漢委奴国王」が57年漢の光武帝から下賜された。ただ、この奴国や伊都国の正確な位置は確定していない。即ち、北九州の有力なクニが中国政権に朝貢している段階で、まだ倭国は統一した国家ではないようだ。「魏志倭人伝」は、三国時代の「魏」と交流である。「三国志」の「魏志倭人伝」では対馬から邪馬台国まで8カ国、その他21国、女王に属さない狗奴国という30国とある。そして、魏に朝貢した卑弥呼は「親魏倭王」の称号を贈られた。もし畿内の纏向遺跡に邪馬台国があったとすると、大和平野に氏族連合王国が形成されていたのだろう。

以上を俯瞰的に要約すれば、約1万年前に始まった縄文時代、そして紀元前数百年ほど前に始まった弥生時代を通じ、この日本列島に独自の文化と民族が形成されていった。これが日本民族で我々の祖先である。そして日本人は渡来したのではなく、この日本の地で渡来した弥生人から、「日本人」になったと言える。この間も、その後も絶え間なく、朝鮮半島から、あるいは、朝鮮半島西南部を経由して、日本列島には中国系の文化とそれを担う人々が流入してきた。

 ただ、岡田英弘教授は「倭国」の中で、東夷伝の記述は中国の事情での外交成果としての記述であり、日本で議論されているような邪馬台国の実態は無かったのではないかと大胆に結論付けている。一方倭国の成立には中国人の商人の活動が大きな影響を与えているとも論考している。     

1202年に朝鮮で作成された地図
1202年に朝鮮で作成された地図

古代史の議論を読んでいると、当時の地理学をどのように認識しているのか不安になることがある。日本列島の正確な地図は伊能忠敬の調査以前にはない。それ以外は不思議な形をしている。例えば、吉村武彦教授の「ヤマト王権」に紹介されている1204年に朝鮮で作成された地図では日本列島は朝鮮半島の遥か南にある。この地図の地理認識で「魏志倭人伝」の邪馬台国をへ行き方は見ると、投馬国が吉備でも出雲でもありうるし、投馬国から水行十日、陸行一月で、邪馬台国が畿内にあってもおかしくない。

また、日本と朝鮮の国境も7世紀に新羅が建国してある程度国境が人為的に策定さたわけで対馬と半島の伽耶地域はほとんど自由に移動する領域であったのだと思う。

ヤマト政権の成立

倭国の成立で述べたように、1世紀半ばから2世紀初頭には倭国が成立していた事は、中国の史書の記述からもうかがい知れる。即ち、前1世紀の「漢書地理志」には 百余国の分立した倭国の記述があり、「後漢書東夷伝」に紀元57年に倭の奴国王に金印を下賜したこと、07年には倭国帥升入貢の記録がある。ただこの時代は部族国家が並立していて統一国家ではない。

この時代、倭国の大乱の記述もあり、さらに、この大乱の影響か、弥生中期の多くの弥生遺跡が小高い丘の上に移動している。この大乱の中で北九州の勢力が凋落して、ヤマト地域の優位性が確立したと思われる。この後述べるが、宋書倭国伝」に、武が上奏文で東55カ国、西66カ国、海北95カ国遠征したということがこれに対応するのだろうか。魏志倭人伝」には、239年に卑弥呼が親魏倭王称号を得たときにも、まだ卑弥呼に従わないクニが30余あるが。

4世紀は中国の三国時代が終わり五胡十六国の混乱の時代であり、中国の国史という資料がないため倭国に関する資料は無いが、半島を経由した通商は活発に続けられていただろう。

 朝鮮半島の歴史では、下って391年には倭が新羅、百済を武力で侵攻し、これを高句麗王、広開土王が開放したという、有名な好太王碑が現在の吉林省集安市の好太王陵の近くに現存する。百済はその後も倭と同盟を結び、皇太子を人質に倭に送る、という記録も残さえている。ことからこの時代は倭には統一的な国家が成立していたのだろう。この間、吉備の勢力も大和の傘下に入り、東出雲から西出雲へと大和勢力が支配権を伸ばしていった。即ち、既に4世紀にはヤマト政権が成立したと考えられている。この時代は古墳文化の時代であり、弥生時代の終わりとなる。

5世紀になると宋が建国して、前述の「宋書倭国伝」に421-428年に渡り「倭の五王」の入貢の記述がある。「宋書倭国伝」には、武が上奏文で東55カ国、西66カ国、海北95カ国遠征したという。当時の倭はおよそ120国の連合王国であったのだろう。そして、倭が宋に対して、朝鮮半島全体の軍事的な支配権を認めるよう度々要請している。後に、百済を除いた軍事支配権を認めたとある。大和では、後の天皇に繋がる大王家の優位性が確立したと思われる。

またこの時代は中国から多くの技術者が河内に流入して、硬質の須恵器、鉄、ガラスなど高度の生産をするようになり、倭になかった馬が導入されたのもこの時代とある。特に百済滅亡の後は数千人単位で倭国に亡命して、文書、土木、陶器、金属加工等の先端技術の専門技術集団として大和朝廷の成立に関与したのだろう。七世紀は中国の先端文明を直接輸入するため遣隋使が送られ、隋が滅び唐が成立後は、遣唐使による本格的な外交、通商そして先進文化の直輸入の時代になり、その衝撃的な文明格差が倭国を大和の国に変えていく。

因みに400年における人口は約150万人という推定値がある。これは朝鮮半島南部の人口のはるかに凌駕していたようだ。この人口差が文化的に優位な百済や新羅を軍事的に圧迫出来た理由である。

天皇制の日本の成立

ヤマト政権は成立したが、その実権はいつしか、蘇我稲目、馬子、蝦夷、入鹿の四代にわたり蘇我氏が握ることにななった。大王家に権力を取り戻し、中国式の中央集権の確立を志す、中大兄皇子と中臣鎌足が645年蘇我入鹿を暗殺し蘇我氏を滅ぼして、いわゆる大化の改新を断行した。豪族の土地と人民を取り上げ全て天皇のものにする、公地公民制、国や県の整備制定、戸籍の作成、租庸調の税制の制定が骨子である。ただ体制が安定し律令国家が実現するのはさらに時間が必要であった。倭国が日本という国号になり、大王が天皇という称号が成立したのは7世紀後半の天武・持統朝であったとする学説が有力である。天皇という呼称は推古朝に始まる。

改革を始めた天智天皇から天武天皇に至る王位継承の混乱即ち、壬申の乱に天智天皇の実弟の大海人皇子が即位して天武天皇になった。この時代にはまだ皇位継承の法がなく、皇族内で血なまぐさい争いが止まなかった。皇位継承に勝利した天武天皇が天皇制確立の半ばで死亡し、その後、皇后が即位して持統天皇になり、天皇制の確立を推進する事になる。持統天皇はわが子の草壁皇子の嫡男に皇位を禅譲し文武天皇を立てた。文武天皇は天智天皇と天武天皇の両統の血を引く。そしてこの皇位継承の正当性と神聖性を理論づけていった。伊勢神宮の建立、日本書紀の編纂がその主要な事業であった。

我が国の古代史で有名な資料である、古事記、日本書記、風土記はこの天皇制の理論的な支柱としてこの天武・持統朝で編纂されたとある。

伊勢神宮と杵築大社(出雲大社)の成立もこの時期である。出雲大社については、日本書紀に斉明天皇5年(695)が、出雲国造に命じて「神之宮」を修造させたとある。大和から見て、伊勢神宮は太陽が昇る地であり、出雲は太陽が沈む地である。国家守護の双対である。ただ、この辺からは素人がついて行けない位の精密な議論が展開されている。明快で論理的構成がしっかりしている議論を新谷尚紀教授が「伊勢神宮と出雲大社」の中で展開している。

まず古事記は和文であり、日本書紀は漢文の国史である。古事記は天武天皇の命で、稗田阿礼が暗誦していた天皇の系譜や古い伝承を太安万侶が書き記し、編纂したものとされている。原本がなく写本も南北朝時代のものしかなく、古事記以外に編纂の記録もないので、偽善説もあるようだ。一方日本書紀は30巻から成る国史でその編纂は、682年の天武天皇明で始まり、元正天皇の720年に完了とある。ただ、この日本書記は、渡来人が記述したと思われる、正確な漢文である部分と、漢語や漢文の誤用が多い倭人が記述したと思われる部分という、2つの区分があるという。天皇制を確立するために、神に繋がる現人神の天皇の系譜を理論化する事業が精力的に天武・持統朝で推進され、その重要なプロジェクトが、日本書紀の編纂であった。

日本書紀の後、中央政府の命で編纂された「風土記」は、下記を記すべきとされた。

  1. 郡郷の名(好字を用いて)
  2. 産物
  3. 土地の肥沃の状態
  4. 地名の起源
  5. 伝えられている旧聞異事

しかし完全に残っているのは出雲国風土記だけで、播磨国風土記、肥前国風土記、常陸国風土記、豊後国風土記が不完全な状態で残されているだけである。これは集められた各地の風土記に記述されている「伝えられている旧聞異事」にあった伝承や神話が日本書紀の論理構成と矛盾しているものが多く強制的に、「焚書」のごとく抹殺れたのではないのだろうか。貴重な当時の地域の情報が記載されていたに違いないので誠に残念だ。風土記の編纂には中央から派遣された国司のような中央政府の指導の基に編纂されたという。出雲風土記にしても、中央の意向は反映されているのだろうが、編纂が地元の国造の力か出雲独自の伝承を巧みに埋め込んでいる上に、完本をどこかに保存したのだろう。

日本書紀、古事記に関する議論の一つが出雲神話の取扱である。ただ、神話は文字の記録のない、はるか昔の民族の歴史を示唆してくれる一方、どこの世界でも、時の権力者が被征服の民族の神話を自己の正当性を主張するように改変しているので、そのままでは受け取れない。出雲神話もその例外ではない。大和朝廷の正当性を証明する目的で編纂された日本書紀に整合する、伝承を取り入れ、改変したのだろう。ただ出雲は、早い時期の倭人も渡来しただろうし、朝鮮半島南部からそれまで、その後も人間、文物が継続的に流入した地域であるので独自の文化や部族、それに伴う神話の伝承もあったと思われる。

天皇制の成立に関して言えば、伊勢神宮の成立の議論が重要である。この時代は宗教改革の時代とも云われ、古来の太陽神と多神教の古代信仰に対して、天文学に基づいた陰陽五行思想、そして仏教が併存して、盛んになった時代である。

陰陽五行思想は早くから日本に渡来した、時期は文字の伝来と同じと考えられているが、百済消滅の後流入した高度な専門家によって宮廷に広く浸透していったのだろう。仏教の伝来は百済から推古朝である。

大和朝廷と百済の関係は一般に考えられているより緊密で、大化の改新の後、中大兄皇子即ち天智天皇は、律令国家即ち天皇制の確立の仕事より優先して、百済再興の軍を朝鮮半島に出し、白村江の戦いで新羅・唐連合軍に敗れ王族を含め大量の難民を受け入れている。蘇我氏をはじめ百済系渡来人との混血も進んでいるのだろう。因みに、百済王朝は北方民族の征服王朝であり、その血を大和朝廷が引いてもおかしくない。

民俗学者の吉野裕子氏は「隠された神々」で、伊勢神宮の建立は、古代信仰を陰陽五行思想で理論化してこれと統合することで天皇神格化することであったという。この結果日の出から日没という東西軸であった日本の信仰は、天の北極星と地から成る南北軸に転換した。従って伊勢神宮の重要な祭事はいずれも北斗七星の星座と関連するという。そして、太陽神の天照大御神を中国思想の神、北斗の「太一」と習合せしめたという。この本で興味深い記述は、明治に成るまで伊勢神宮に天皇親拝が全く無いということだ。これは未だに謎であろう。

伊勢神宮の成立は、取りも直さず絶対的な天皇制の成立である。そして、平城京に代表される奈良時代になり、日本の古代が終わり、日本文化が創成されていったのだろう。

奈良時代の人口は約500万人という推定値がある。畿内は50万人程度だが、美濃から伊勢、尾張、遠江、駿河、相模、武蔵、上総、下総、常陸という関東が約120万と推定されている。取り分け、相模、武蔵、上総、下総、常陸は約70万人とある。広大な水田に適した地域の開発が進み大和朝廷を支えていった様だ。この開拓にも多くの渡来人が参画している。

主要な参考図書

篠田謙一   日本人になった祖先たち NHKブックス 2007年

大野晋     日本語の源流を求めて 岩波新書 2007

石川日出志  農耕社会の成立 岩波新書 2010年

鳥越憲三郎  古代中国と倭族 中公新書 2000年

岡田英弘    倭国 中公新書  1977年

吉村武彦    大和王権 岩波新書 2010年

新谷尚紀   伊勢神宮と出雲大社 講談社選書メチエ 2009

吉野裕子   隠された神々 講談社現代新書 1975

河出書房新社編集部 日本語の起源を探る 河出文庫 2003年

読んで参考になった本

佐々木隆    日本の神話・伝説を読む  岩波新書 2007年

鳥越憲三郎  古代朝鮮と倭族  中公新書 19992年

遠山美都男  壬申の乱 中公新書 1996年

森浩一     倭人伝を読み直す 筑摩新書 2010年

三浦祐之   古事記を読み直す 筑摩新書 2010年

金達寿     古代朝鮮と日本文化 講談社学術文庫 1986年

朴炳植     消された「ウガヤ」王朝 毎日新聞社 1993年

朴炳植     スサノオのきた道 毎日新聞社 1988年

間壁忠彦 間壁葭子 古代吉備王国の謎 新人物往来社 1972年

山科ももじろう 日本人の起源 文芸社 2003年

関祐二     藤原氏の正体 新潮文庫 2008年

関祐二     消された王権 物部氏の謎 PHP文庫 2002年

参考となったweb情報

俯瞰古代史の考証では随時多くのweb情報が参考にした。特にwikipediaは辞典として、極めて有用であった。また、大学や公設試のHPも有用な情報源であった。直接質問して返事を頂いた事もあった。webに公開されている学術論文を直接読むことあった。例えば、福岡県立大学の岡本雅享准教授の「島国観再考――内なる多文化社会論構築のために」は長文の論文で、出雲を含め日本海に広がった、古代日本に関して再認識をさせてくれた。加えて、現代の「裏日本」という課題についても認識を新たにさせてくれた。多くの書籍を乱読するうちに、頭に浮かんだ、新羅、対馬海流、出雲というルートと、百済、瀬戸内海、吉備、大和というルートの2極構造の仮説も、この論文の中で、上田正昭教授が「百済から(瀬戸内海を通る)大和への文化に対して、新羅とか高句麗を通して、日本海ルートで出雲に入ってくる文化の対立があったと理解した方がいい」と言明されているという紹介があり得心した。また、科学研究費補助金の研究成果報告書もweb上で閲覧することが出来き情報公開の威力を実感した。

このように学術情報のweb情報は極めて有用であるが、下記のようなサイトの情報は別の面で大変面白く、古代史への興味を昂進させてくれる。

 

中央構造線と古代史を考える http://www.geocities.jp/tyuou59/

扶余国と天の王朝 http://plaza.rakuten.co.jp/Phoenix3/diary/200910240000/

弥生ミュージアム http://www.yoshinogari.jp/ym/episode01/jyousei02.html

史料『漢書地理志~宋書倭国伝』のポイント http://www.geocities.jp/michio_nozawa/06siryou/siryou15.html

徐福伝説 http://www.syamashita.net/history/johuku/densetu.html

ふるさと調月 http://www.syamashita.net/history/index.html

日本の逆さ地図 http://livedoor.2.blogimg.jp/tiger_85_03/imgs/3/8/3882e98a.jpg

いづものこころ http://blogs.yahoo.co.jp/shigechanizumo/MYBLOG/yblog.html

考古学のデーターベース http://yamatai.cside.com/tousennsetu/data.htm

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