九州宗像神社

宗像神社は沖ノ島の沖津宮、筑前大島の中津宮、宗像市田島の辺津宮の三社の総称です。全国の弁天様の総本宮でもあります。沖ノ島は島全体が御神体で、そのため現在でも女人禁制で、男性であっても527日にしか上陸して参拝できません。しかも上陸前には禊を行なわなければならないとのことです。そして沖の島は俗に「海の正倉院」と呼ばれており、45世紀から9世紀までの石舞台や古代装飾品などの大量の祭祀遺物が発見されています。

中津宮にはなんと天の川があり左右に牽牛と織姫が祭られています。ここが七夕の発祥の地だそうです。海沿いの小さな神社です。

辺津宮はかなり大きな神社で背後の山頂には原始的なストーンサークルのような石の祭壇があります。

古代人は朝鮮半島から対馬を経て沖ノ島をめざしこの宗像の地に上陸したのでしょうか。

近くには有名な遠賀川式土器で有名の弥生時代の集落があり、この地域は日本の稲作の伝播の地と考えられています。

また近くの黒崎市には、神武天皇が東征の折47艘の船団を用意するため、宇佐からこの地に来て、約1年滞在したという現在は一宮神社になっている岡田宮跡がありそこにも足を延ばしました。ここにも石の祭壇跡があります。神武天皇(実存の可能性が高い崇神天皇と神武天皇を同一人物と見る説があります)は当初は新羅遠征を企てていたのではないかという説もあるそうです。神武東征ではこの後、今の広島県、阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)で7年、岡山県、吉備国の高島宮で8年過ごしました。中原を征服するべく浪速国の白肩津(現 東大阪市附近)に停泊した時、ナガスネヒコの軍との戦闘で兄のイツセを失い、遠く南の南紀、熊野から山越えで大和に入り豪族を服従させて、畝火の白檮原宮で即位したというのが古事記の神武東征の伝承です。

「日本人はどこから?」という一連の勉強の一環としてこの地の地勢を見たかったのが訪問の動機です。上陸地点として問題ない地勢でした。ただ休耕田が多く目につき、弥生以来の美田の荒れ方が無残です。食用はまだ国内で増産できますね。

ともかくこの宗像の地が半島からの移住と交易として古代の日本人にとって重要な地であったと思います。

地勢は海から少し入り、小高い照葉樹の森を背にし、横を川が流れているという地形です。その山の上に石でできた祭壇が設けられています。鎮守の森という日本語が形になっています。よく見ると全国の神社の地勢はすべてこの形です。世田谷の駒繋神社も小さいですが同じ地勢です。ここは源氏の八幡太郎義家が関東の東征の折、馬を繋で、宿営したという地です。その昔はこのような地形を選んで陣を、居を構えていたのでしょう。

 

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