三内丸山遺跡は縄文時代前期中頃から中期末葉の大規模集落跡と言われていますが、これは「古代都市」です。
街路があり、数百棟を超える住宅と、数百人が収容できるシティーホールもあります。墓地やごみ処理場もあります。ペルーのマチュピチも小さいながら都市でした。都市から文明が始まり、次いで農耕文化が発達するというのが、有名な市井の都市学者、ジェーン・ジェイコブスの理論です。
栽培で直径1メートルを超す、まっすぐな幹に仕立てた栗柱は圧倒的な栗の栽培技術を示しています。それを6本使用した建造物は海からの外敵や交易船の見張り台でしょう。シティーホールのすぐ脇に設置されています。
地形は海から少し入った川(沖館川)の岸部に繋がるなだらかな丘陵で現在もナラ、クヌギなどの落葉樹の林です。縄文らしい地勢です。いわゆる西日本の照葉樹林の縄文とは違い、落葉樹林の北方系の縄文なのでしょう。しかし、土器には照葉樹系の縄文文化である漆が塗布された物があり、二つの文化の交流の跡がはっきり確認できます。その他の遺物から糸魚川ヒスイの勾玉や北海道の黒曜石などから北日本の日本海沿岸の広い交易圏の存在も確認できます。
問題はこの縄文文化が、この都市がなぜ放棄されてしまったかです。古代文明の大部分が放棄されていて、その原因が気象の急変や疫病、水・食料の枯渇などいわれますがここは周辺の採集・狩猟の資源が何らかの理由で急減したのでしょうか。弥生文化との競合に破れたり、吸収された土地ではありませんので気になりました。
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